みなさん、こんにちは。臨床発達心理士の「おさき ゆうこ」と申します。
カウンセリングルームききびとアンダンテ♪にご訪問くださり、どうもありがとうございます。私のプロフィールについて簡単にまとめています。
目次
コミュニケーションに悩む自然派少女
私は、山口の片田舎に両親と弟の4人家族の長女として生まれ育ちました。両親からは目に入れても痛くないほど可愛がられ、就学前の幼稚園体験は1年間しかありません。山や田畑、川など自然豊かな環境でゆったりと育ちました。近くに子どもがいなかったため、子ども同士で交流する機会は殆どありませんでした。
私の両親は専業農業で、朝早くから夜遅くまで働き詰めで、私はそのそばで一日を過ごすことが多く、別段友だちがいなくても平気。両親の働くそばでひとり遊びをしていました。近くの山や川には、子ども心に興味を惹くものがたくさんあり、毎日がひとり探検ごっこで、遊びにはこと欠きませんでした。
ところが、小学校に上がると、何もかもが初めて見るもの、やることばかりです。私は、面食らいました。身動きが取れなくなってしまって、やることがわからないから、何をやるにも一番最後でした。
ある授業参観の日、いつものように全員発表がありました。《発表が終わったら次の友だちに当てて、自分は座る》という流れなのですが、私のことを知らない友だちから当ててもらうのは難しく、後ろで保護者が見守る中、私は発表が終わらないので、椅子に座ることが許されず、最後の一人の立ちん坊になってしまいました。
夏の授業参観では、プール遊びがあったのですが、その日はプールの底に沈んでいるフルーツのナシをもぐって拾うという内容でした。川で遊んだことはあるものの、もぐって目を開けて何かを捜すなどということはしたことがありませんでした。私は、水が怖くてナシが拾えず、誰の助けも得られなかったため、これも最後の一人になってしまいました。
参観が終わって、私の母は校長室に呼ばれ、担任の先生からお叱りを受けました。
「何事にも消極的で自分から何もやろうとしないお子さんです。無口で突っ立っていることが多いから、もっと積極的に子ども同士で遊ばせるようにしてください。」
母は私を正座させ、こんこんと言って聞かせました。いくらお説教をされても、どれもこれも私にはできそうにないことばかりでした。いくらプールの中とはいえ、食べ物を足で蹴り上げてナシを取るということがどうしてもできなかったのです。それに、何か言おうと思ったら、頭の中で言葉が溢れて、母に自分の思いを告げることはできず、いつも涙を流すことで終結を迎えるのでした。
学校ではたびたび失敗体験が続き、「何もできない子」というポジションが出来上がっていました。私は、いつものことなので、友だちがかまってくれなくても平気でした。むしろ一人の方が気楽でした。私の頭の中にいるもう一人の自分との問答をやっている方が楽しかったです。
自分のことが、大嫌い!
唯一のひとり遊びは友だちの行動観察でした。でも、よく知らない友だちが近寄ると不安になって身構えるようになったし、からかわれると赤面しました。どうしていいのか分らなくなって、頭の中が真っ白になる感覚がありました。そのせいで、腹痛が始まることもあり、学校を何度も休みました。大事な場面が近づくと、体調が悪くなり、腹痛がたびたび起こりました。母親が学校に電話をかけ終わったら、腹痛は治まるということが続きました。
中学生になってからは、以前より周りの目が気になるようになりました。
相変わらず黒板に落書きされたり、「K君と私(おさき)は夫婦みたいだあ!まるで夫婦だ!」みたいに囃し立てられたりすることもあり、とても嫌な思いがしました。
本当はみんなと話がしたいし、仲良くなりたいのに、私はどうしても勇気が出ませんでした。一言でもいいから話せたらいいのに、それができない自分がますます嫌いになりました。
そして、私のことを心配して、だけどまた説教を始める母親が心底疎ましかったのです。
「私は、こんなんじゃない!」
「こんな自分は大嫌い!もういい、私はひとりで生きていくから!」
「私のことは、他人だと思って!」
とうとう私は言い放ってしまいました。そして実母とは、気持ちの上でのキョリができてしまいました。
変わりたいけど、変われない
高校進学の際には、自分のことを誰もが知らない世界に飛び出して、今まで見せていた大嫌いな自分と決別し、新しい自分に何が何でも生まれ変わりたいと思いました。
私のことは誰も知らないはず。今までとは違う自分を出しても誰も気づかないはず。だから、誰も知らない私だけの小さな一歩を、恐れずに踏み出してみよう。
積極的に行動しようと決めていた私は、入学式の日、たまたま隣の席に座っていた子(Oさん)に自分から話しかけてみました。軽快な返事がもらえて、私はすごく嬉しくなりました。生まれて初めて、自分から声をかけることができたのです。
Oさんはものの考え方が私に似ていました。だから、お互いに共感できる部分がたくさんありました。O さんの前では、自分を出せるようになれたのです。本当に信頼できる友だちに出会えました。
当時は交換日記がはやっていて、私はOさんからの申し出を受けて、交換日記をすることになりました。自分の思いをいろいろと書きました。私のことをどう見ているのだろう?私は、それが気になってOさんの返事が待ち遠しくてたまりませんでした。
Oさんとの交換日記で、自分のことが大事に思われているということが分かり、Oさんとは何となくやって行けそう!という感覚ができました。
でも、他者への不信感は相変わらずで、みんなの前で、「お先(おさき)真っ暗だな~、お前は」と担任から言われると、冗談でも許すことができず、とても傷つきました。私は、「もっと変わらなくっちゃ!」といつも考えていました。
大学入試の前日、初めてひとりで受験先の神戸をうろうろし、緊張度が増し、胸が苦しくなりました。宿のトイレで、極度の緊張と恐怖で、出られなくなりました。他者の笑い声がすると、自分のことを笑っているように思われて耳を塞ぎたくなりました。なるべく旅館では知らない人と出会わないように、隠れるようにしていました。
こんな経験をして結局のところは、担任の勧めで、神戸は諦め、田舎の女子大学に進学することに決めました。高校時代にできた友だちは別の進学先を選び、交友は途切れてしまいました。でも、勇気を出して自分から話しかけることができるようになったおかげで、何とかやっていけそうな気分にはなっていました。
大学でも気の許せる友だちができました。2つ年上の帰国子女だったのですが、4年間いつもそばにいてくれて、気持ちの上では安心感がありました。
小学校の先生になりたい!
やがて就職先を見つける時期が来て、私は小学校の先生になろうと思いました。実は2つ大きな理由があります。
1つ目は、私自身が小中学校時代に味わった辛い思いを、子どもたちに絶対に味わわせてはいけないと思ったからです。
「十人十色。誰もが安心して過ごせる場所が必要だ!みんなで楽しく学べる教室を創ろう!」
いくら子ども同士のつながりが薄いからとはいえ、何度挙手しても発言の機会が与えられず、最後まで立たされて、叱られるなんて、おかしな話です。子ども同士で発言順が偏り、発言できない子どもが出てきたら、発言が苦手な子どもを先に当て、恥ずかしい思いをさせないという配慮があってもよかったのではないでしょうか。
私の場合は、精一杯挙手しても発言の機会が与えられず、結果、最後まで立たされたわけですが、このような理不尽さが子どもながらに他者への不信に繋がっていったのではないかと思います。同様のことが何度も続けば、無気力にもなりますから。
2つ目は、できる自分を好きになりたかったからです。
子どもの頃から、うまくできない自分のことが大嫌いで、ずいぶんと悩んできました。自分が苦手なことから逃げているようで、それも嫌でした。苦手なことと向き合わなければいけないからこそ選んだ仕事なのです。
自分がかつて痛い目に合ったその場所で、自分自身の苦手意識を克服し、できる自分を好きになりたいと思ったからなのです。
苦手意識との戦い
担当学級が決まると、もう嬉しく毎日がワクワクとドキドキ。子どもたちの気持ちに寄り添って声をかけ、新しい人間関係をつくっていく日々は楽しさの連続でした。クラスにはいろいろなタイプのお子さんがいて、どの子もとても愛おしかったです。
学級単位の仕事は問題なかったのですが、人前で話す仕事が回ってきた時には、逃げたい隠れたいという気持ちに押し潰されそうでした。
運動会でのアナウンスや音楽会・行事でのピアノ伴奏など、失敗が許されない場面での仕事が多く、ことごとくストレスで胃潰瘍に。大事な仕事の3日前からシクシクと痛み出し、当日まで腹痛に襲われる始末。終わっても尚恐怖の余韻で、身体中が震えたりしました。
頼まれた仕事を断りきれなくて、そのまま引き受けてしまうことも多かったです。自分にチャンスをくれたんだ!これはできる自分をみんなに示せる機会なんだ。だからやるしかないんだ。きちんと仕事をこなさないとダメなんだと、いつも自分に言い聞かせて、無理やり気持ちを奮い立たせていました。
胃が痛んで仕方がないので、掛かり付けの病院に投薬をお願いすると、先生から、「無理ばかりしていると取り返しがつかないことになるよ。いい加減にしときなさいよ!」と。
「そうだよな。」と、身体が悲鳴を上げているのは分かっていたけれど…。
やって当然。できて当たり前。ちゃんとやらなきゃ!どうしてできないの?また逃げるの?
そんな言葉が私の心の底から湧き出してきて、苦しくてたまりませんでした。
もう限界でした。
毎日がため息交じりで、どうしてできないんだろう?本当に自分はダメな人間だ!と情なくなって落ち込んでいました。自分を好きになるどころか、ますます嫌いになっていきました。
気持ちが落ち込み、毎日がとても疲れるようになり、仕事も捗らない私を見かねて、同僚が声をかけてくれました。
カウンセリングで、本当に変われる?
私は職場の先輩の紹介で、カウンセリングを受けることにしました。ちょうど、スクールカウンセラーが導入された時期で、カウンセリングチケットをもらったのと、不登校の子どもが自分のクラスにいて相談したかったことがきっかけでした。
自分が認めてもらえないことに抵抗のある私は、自分のことを話すのは好きではありませんでした。話してとやかく言われるのは嫌だなあと思いながらも、カウンセリングを受けてみたんです。
カウンセラーの先生は、今まで誰にも話せなかった部分にも触れてくれて、私の気持ちを良いも悪いも全部丸ごと受け止めてくれました。心の奥に押し込んでいた気持ちが止めどもなく噴き出してきました。
今まで分ってほしかった思いが、次から次へと、言葉になって涙と共にポロポロと転がり出てくる。そんな感じでした。私はカウンセラーの先生の前で、初めて弱音を吐きました。
全部吐き出してしまったら、急に心のつっかえがとれたみたいに、気持ちが楽になりました。何度かカウンセリングを受けて、少しずつ気持ちが整い、私は前が向けるようになりました。
人前で涙をこぼすなんてみっともない。
愚痴を言うなんて自分の弱い証拠。
やって当然。
できて当たり前。
ちゃんとやらなきゃ!
どうしてできないの?
また逃げるの?
「若いからいろんな経験を積んで何でもやりこなせる教師にならないとね。」「辛くてもそれに耐えてこそ本物の教師になれるのよ。」などど先輩たちから激励され、本当にそうだと信じて、がむしゃらに頑張ってきた6年間。
先輩たちの声かけや心の底から湧き起こる自分の心の声に叱咤激励され、ここまでやってこれたけど、これらの言葉こそ、自分を苦しめてきた言葉だったんだと気づかされ、がむしゃらに頑張るのはもう止めようと思いました。
自分のダメな部分ばかりに目が行き、良い面にはちっとも気付けていませんでした。一旦心の中をリセットして、もう一度やり直したいと心から思えたのです。
もしあの時に、もっと早くカウンセラーの先生に出会えていたら、こんなにストレスを抱えて身体を痛めることはなかったかもしれないし、もっと早くに立ち直っていたかもしれません。もし、出会えていなかったら、私は仕事を辞めていたかもしれません。今日の私はいなかったと思います。
立ち直った私は、特別支援学級で学びを深める
7年目に、私は1年生を担当しました。入学式の日に、ずっと自分の席につかず、私のスーツのボタンを触っている子どもに出会いました。脇にこの子を抱えて、保護者のみなさんにご挨拶をしたのを覚えています。会話が成り立たず、意思表示が難しい。座学ができず、いつも私のそばにくっ付いているお子さんでした。
友だちとの関わりがたくさん創れる学級で、彼にとっては多くの学びがあったと思います。本人の学び、関わってくれる周囲の子どもたちの学びも多く、いろいろな出来事を通じて、考えさせられる事柄が満載。毎日何かがある!何かというのはアクシデントも含みますが、ピンチにチャンス!勉強以外の学びが特に大きかった!泣いたり笑ったりの繰り返しの中で、人間として大事なものをお互いにたくさん学べた思い出の大収穫の1年でした。
8年目に、私は総合支援学校(特別支援学校)に勤務先が異動しました。自分から希望したのですが、重複障害のお子さんたちを担任しました。単一障害のお子さんたちは、病気を克服し、通常学級に戻っていくのですが、そうではない子どもたちもたくさんおられました。
摂食指導の時間は、嚥下の難しいお子さんにスプーンで少しずつ刻み食を口に運んであげたり、オムツを替えてあげたり、首のすわらないお子さんを後ろから支えて、音楽の授業をしたり…。いろいろとやりました。
『子どもたち一人ひとりに配慮して、必要な支援を必要なだけ適切に行う』というのが私の信念でした。支援がちょっぴりで自力解決できる子どもさんもいれば、たくさん支援が必要なお子さんもおられました。
親の気持ちになって泣きたくなる日もありました。「生きる」ということが、どれほど尊いことか、どれほどたいへんなことか。それを支える親の身になって考えさせられることがたびたびありました。私にとって、「命の大切さ」を深く深く学んだ場所でした。
お別れは辛かったけど、3年間勤めた総合支援学校を後にし、私は新設の肢体不自由学級の担任として次の小学校に赴任しました。障害にもめげず、懸命に生きようとする子どもの姿がいつも思い出され、少々のことにはへこたれない自分になっていました。
子どもと親のために、旗を振る!
どの子どもも「なりたい自分」を持っている。だから、「なりたい自分」に一歩でも近づけるように応援をしてあげたいと考えるようになりました。また、「誰でも良いところをたくさん持っている。良いところをしっかり伸ばして自信に繋げてあげよう!」
元気であれば、何でもできる!
元気がなければ、元気が出るように気持ちを支えてあげよう!
子どもの気持ちに寄り添い、親の気持ちにも寄り添いつつ、一緒に問題を解決していくようになっていきました。
支援の必要なお子さんと接する機会が多くなり、それに伴って保護者の方からの相談を受けることも増えてきました。特別支援学級やことばの教室を担当するようになり、相談数は増えてきました。
友だちと話したいけど、コミュニケーションの仕方が分らない、友だちとうまくやっていけない、いつも自分が怒られているように感じる、クラスが怖くて学校へ行きたくないなどで悩んでいるお子さんにたくさん出会いました。
不登校の子どもに対して心配でたまらないお母さんとじっくり話し、お母さんの不安な気持ちに寄り添い、心を支えるお手伝いもたくさんしてきました。
59歳で退職するまで19年間障害のある子どもたちと共に過ごし、癒しをいっぱいもらってきました。子どもたちは『生涯の私の先生』です。教わることがたくさんありました。でも今度は、私が恩返しをする番です!
私と同じように苦しい思いをしている人の100%味方になろう!
一人ではどうしようもなく、助けを必要としている人の100%味方になろう!
現在は、リアル(Zoomも)カウンセリングと学習支援を実施し、不登校傾向の生徒さんへの支援に心を砕いています。
ききびとアンダンテ♪では…
カウンセリングルームききびとアンダンテ♪では、発達心理学をベースに支援活動を行っており、ひきこもり、不登校、虐待、自閉症、ADHD、学習障害、社会性、コミュニケーションの問題などのお悩みに対応しております。その他のお悩みについてもご相談に応じますので、気軽にお声をかけてください。
カウンセリングルームが、皆さまの心の癒しの場になれますように、今後も務めてまいります。
ききびとアンダンテ♪は、いつもあなたの気持ちに寄り添い、問題解決のお手伝いをしてまいります。
学校で友達とうまくやっていけないお子さんや
不登校の子に対して心配でたまらないお母さんへ
不安な気持ちを吐き出すだけで
解決への具体的なプロセスがわかり
お子さんの社会性とコミュニケーション力がどんどん上達する
19年特別支援教育に携わり親と子を見守り続けてきたカウンセラーが導く
家族みんなで笑い合えるようになる やさしい3ステップ
カウンセリングルームききびとアンダンテ♪ おさき ゆうこ